戦国軍記 現代語訳

主に戦国時代の軍記物を現代語に訳しております。

常山紀談巻之一 輝虎平家を語らせて聞かれし事附佐野天徳寺の事

 輝虎はある夜、石坂検校に平家物語を語らせて聞いていたところ、鵺の段を聞いてしきりに涙していた。

 側に控える者たちは怪訝に思っていると、輝虎が言うには、

「我が国の武徳も衰えたものと覚える。昔、鳥羽院の時代、禁中に妖怪が出たとき、八幡太郎源義家)が鳴弦(邪気を払うために、弓の弦を手で引き鳴らすこと)して鎮守府将軍源義家と名乗れば、妖怪はたちまち消えた、とのことだ。その後、源頼政が鵺を射たにもかかわらずに死なず、井野隼人が刺し殺してとどめを刺したと聞いた。義家が鳴弦した時は天仁元年のことであった。鵺が出たのは近衛院の仁平三年であるので、わずかに四十六年後ことだが、既にはるか武徳が劣ってしまった。今は頼政の時代から四百五十年後であるから、わしがまた頼政にはるかに劣っていると思えば、思わず涙を流してしまった」と語られた。

 また、これと似た話があるので付記する。

 

 相模国北条家の幕下佐野城主天徳寺(了伯=佐野房綱)は勇将であったが、あるとき琵琶法師に平家物語を語らせて聞いていたが、まだ語りおわらない先に

「私はただあわれなる話を聞きたいと思っている。そのように心得よ。」と言われ、

法師は「わかりました」と、佐々木高綱の宇治川の先陣の段を語りだしたところ、天徳寺は雨雫のように涙を流して泣いた。

 また、もう一曲前のようなあわれなる話を聞きたいと言ったので、那須与一(宗高)の扇の的の段を語った。話の半ば、天徳寺はまた涙を流してしまった。

 

 後日、天徳寺は側に仕える者達に「この間の平家物語を聞いてどうであったか」と聞いたところ、

「全て面白かったとです。ただし、一つわからないことがありました。二曲とも勇気ある功名話であって、悲しいところは少しもなかったのに、殿は涙を流してむせておいでになりました。今でも不思議なことと思っております」といったところ、

 天徳寺は驚いて、「今の瞬間まで皆を頼もしく思っていたが、今の一言で力が抜けてしまったぞ。まず佐々木高綱の話をよく心に思い浮かべてみたまえ。右大将(源頼朝)が、舎弟の蒲冠者(源範頼)に与えず、寵臣の梶原(景時)にも与えなかった名馬生食(いけずき)を高綱に与えられたのだ。それにもかかわらず、この名馬で宇治川の先陣をとれず、他の者に先を越されたら、必ず討死して再び帰らないと暇乞いをして出陣している。その志があわれと思い涙を流したのだ。」

そのあとしばらくして言うに、

那須与一も多くの者の中から選ばれ、ただ一騎で陣前に出て、馬を海の中に乗り入れて的に向かうに至るまで、源平両家鳴りを潜めてこれを見まもった。もし射損なったら味方の不名誉となり、その場合は馬上で腹を掻き切って海に身を投げようと思い定める気持ちを察してみよ。弓矢をとる道ほど悲しいものはない。私もいつも戦場に臨んでは、高綱や宗高と同じ気持ちで槍を取っており、平家物語を聞いたときも両人の気持ちを思いやって、涙が止まらなかった。それだというのにその方達は悲しくなかったと言うか。思うにその方達の武辺はただ一時の勇気にまかせて、真実から出た勇気ではないのではと思ったぞ。それでは頼りにならない。」と嘆いたとのことであった。

 

常山紀談巻之一 長尾輝虎越後を治められし事

 長尾輝虎の幼名を猿松と言う。

 

 輝虎の始めの名は景虎であった。後に京に上洛した時、将軍・足利義輝の一字をいただいて輝虎と名前を改めた。祖先は鎮守府将軍良兼四代目の孫、左衛門尉致経(むねつね)の二男村岡五郎忠通(ただみち)の末裔で、その後長尾氏を名乗る。後に関東管領上杉氏の家督を譲り受けて上杉氏を名乗る。甲陽軍鑑梶原景時の末裔と言われているのは誤りである。

 

 兄を三郎といい、猿松は気性が荒かったため、父・為景は快く思っていなかった。これは継母の讒言によるものと話でもある。

 かくして、「猿松を出家させよ」という父・為景の命令により、下越後の橡原浄安寺に追いやられた。このとき金津親兵衛が供をしており、米山を超える際に、猿松は八歳であるため徒歩の侍が猿松を背負って山を登り、嶺にある堂で休むため背から降ろして供の者は破籠(弁当)を取り出して差し上げた。その時、猿松は頸城府内を眺めて、少し涙ぐみ、

「私はこのように落ちぶれてる悔しい。やがては軍をおこして志を遂げようとするならば、この山によじ登って、府内を目の下に見下ろしてやろう。ここは戦の要地である」とおっしゃったところ、猿松の乳母の子である本條美作守も声を震わせ「そのお言葉お忘れにならないように」と喜んだ。

 

 一節には、父・為景は猿松を疎んで、其傅城(そのもりじょう)の越前守に預けたという。この時、猿松十二で、それより諸国をめぐり、各地の風俗を見て、人情を察し、地の利を窺った、という話である。

 

 こうして猿松は、九年間の間寺に預けられたが、僧侶になるような気持ちもなかった。

 天文十四年、父である為景が越中にて討死した。

 為景の嫡子・三郎は暗愚であったため、越後は乱れ、領地も所々敵に奪われてしまったため、猿松は父の忌い合戦をしようと思い立ち、宇佐美駿河守定行とはかって、天文十六年正月十八歳で元服して平三景虎と名乗り、橡尾(つるお)の城で挙兵した。

 三郎はこれを聞いて、長尾越前守政景に七千の兵を与えて攻めさせた。

 景虎は櫓にいて、「敵は今夜引き返す様子だ」と言われるのを定行が聞いて、「はるばると攻めて来たのに、何もせずに退却するでしょうか」と言った。

 景虎は、「敵に小荷駄がない。長い間城を包囲する考えではない。退却するところを打って出れば勝つことは疑いない」といわれたので、定行もそのとおりだと思い、夜半に打って出た。結果、政景の軍は取り乱して敗北した。

 三郎は再び景虎に軍を差し向けた。景虎は柿崎の下濱(しもはま)にて陣を張って迎えうち、そして三郎を打ち破った。三郎が府内から撤退するときに、景虎は米山の東坂本にて、「眠気がしてきた。休んでから後を追う」といって陣所としている近くの民家に入ってしまった。

 宇佐美定行は「そんな悠長なことはいっておられません。すぐに追討ちすれば破竹の勢いで敵を破ることができましょう」と言上したが、すでに景虎は高いびきをかいて眠ってしまったので、景虎軍の将兵は皆、「これで絶好の機会を失った」と嘆きあった。

 少したって景虎が突如起きあがり、「三郎の軍兵は山を三分の一向こう側に越えたところであろう。さあ、追討ちするぞ。」といって馬に飛び乗り、法螺貝を吹かせ、全軍に突撃させ、亀破坂より三郎軍を逆落としにして大勝利したのであった。

 定行は「今日逃げる敵を撃つべきとき、眠ったふりをされたのは、山を登ろうとする敵から上より攻撃を受ければ不利である。敵が下り坂になって、去っていくところを撃とうとしたとのこと。これは、私のような老臣等が考えに及ばないことであった。景虎様は今年でわずか十八歳だが、戦において誰が肩を並べられようか。」と皆に語った。

 

 景虎はこの後、越後を収めることとなったが、高野山に突如出奔しようとした。長尾家の重臣が集まって評定を開き、「景虎様がいなければ越後は敵に奪われてしまう。さあ、追いかけよう」と、関の山でやっと景虎に追いついて、皆で足止めしたところ、景虎が言うには、

「わしは年若く、威厳がないのであろう。老臣どもがわしを軽んじるのであれば国の根本が成り立たない。そういう国人のために利を求めるは我が身に害を招きかねん。これより後、わしの命に背かないというなら、起請文を差し出せ。そうするのであれば越後にとどまることとする。」とおっしゃったので、

「もとより景虎様を主人と仰いでおります。主命に背くことなどありえません。」といったところ、「それならばよし」と越後に戻られ、三郎を隠居させたのち、越後の主として威をふるい、越中に攻め入って、父の忌い合戦を遂げたのであった。家臣の中で二心ある者は林泉寺にて切腹させ、国を治めることとなった。

 景虎は晩年、出家して謙信と称する。