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戦国軍記 現代語訳

主に戦国時代の軍記物を現代語に訳しております。

常山紀談巻之一 長尾輝虎越後を治められし事

 長尾輝虎の幼名を猿松と言う。

 

 輝虎の始めの名は景虎であった。後に京に上洛した時、将軍・足利義輝の一字をいただいて輝虎と名前を改めた。祖先は鎮守府将軍良兼四代目の孫、左衛門尉致経(むねつね)の二男村岡五郎忠通(ただみち)の末裔で、その後長尾氏を名乗る。後に関東管領上杉氏の家督を譲り受けて上杉氏を名乗る。甲陽軍鑑梶原景時の末裔と言われているのは誤りである。

 

 兄を三郎といい、猿松は気性が荒かったため、父・為景は快く思っていなかった。これは継母の讒言によるものと話でもある。

 かくして、「猿松を出家させよ」という父・為景の命令により、下越後の橡原浄安寺に追いやられた。このとき金津親兵衛が供をしており、米山を超える際に、猿松は八歳であるため徒歩の侍が猿松を背負って山を登り、嶺にある堂で休むため背から降ろして供の者は破籠(弁当)を取り出して差し上げた。その時、猿松は頸城府内を眺めて、少し涙ぐみ、

「私はこのように落ちぶれてる悔しい。やがては軍をおこして志を遂げようとするならば、この山によじ登って、府内を目の下に見下ろしてやろう。ここは戦の要地である」とおっしゃったところ、猿松の乳母の子である本條美作守も声を震わせ「そのお言葉お忘れにならないように」と喜んだ。

 

 一節には、父・為景は猿松を疎んで、其傅城(そのもりじょう)の越前守に預けたという。この時、猿松十二で、それより諸国をめぐり、各地の風俗を見て、人情を察し、地の利を窺った、という話である。

 

 こうして猿松は、九年間の間寺に預けられたが、僧侶になるような気持ちもなかった。

 天文十四年、父である為景が越中にて討死した。

 為景の嫡子・三郎は暗愚であったため、越後は乱れ、領地も所々敵に奪われてしまったため、猿松は父の忌い合戦をしようと思い立ち、宇佐美駿河守定行とはかって、天文十六年正月十八歳で元服して平三景虎と名乗り、橡尾(つるお)の城で挙兵した。

 三郎はこれを聞いて、長尾越前守政景に七千の兵を与えて攻めさせた。

 景虎は櫓にいて、「敵は今夜引き返す様子だ」と言われるのを定行が聞いて、「はるばると攻めて来たのに、何もせずに退却するでしょうか」と言った。

 景虎は、「敵に小荷駄がない。長い間城を包囲する考えではない。退却するところを打って出れば勝つことは疑いない」といわれたので、定行もそのとおりだと思い、夜半に打って出た。結果、政景の軍は取り乱して敗北した。

 三郎は再び景虎に軍を差し向けた。景虎は柿崎の下濱(しもはま)にて陣を張って迎えうち、そして三郎を打ち破った。三郎が府内から撤退するときに、景虎は米山の東坂本にて、「眠気がしてきた。休んでから後を追う」といって陣所としている近くの民家に入ってしまった。

 宇佐美定行は「そんな悠長なことはいっておられません。すぐに追討ちすれば破竹の勢いで敵を破ることができましょう」と言上したが、すでに景虎は高いびきをかいて眠ってしまったので、景虎軍の将兵は皆、「これで絶好の機会を失った」と嘆きあった。

 少したって景虎が突如起きあがり、「三郎の軍兵は山を三分の一向こう側に越えたところであろう。さあ、追討ちするぞ。」といって馬に飛び乗り、法螺貝を吹かせ、全軍に突撃させ、亀破坂より三郎軍を逆落としにして大勝利したのであった。

 定行は「今日逃げる敵を撃つべきとき、眠ったふりをされたのは、山を登ろうとする敵から上より攻撃を受ければ不利である。敵が下り坂になって、去っていくところを撃とうとしたとのこと。これは、私のような老臣等が考えに及ばないことであった。景虎様は今年でわずか十八歳だが、戦において誰が肩を並べられようか。」と皆に語った。

 

 景虎はこの後、越後を収めることとなったが、高野山に突如出奔しようとした。長尾家の重臣が集まって評定を開き、「景虎様がいなければ越後は敵に奪われてしまう。さあ、追いかけよう」と、関の山でやっと景虎に追いついて、皆で足止めしたところ、景虎が言うには、

「わしは年若く、威厳がないのであろう。老臣どもがわしを軽んじるのであれば国の根本が成り立たない。そういう国人のために利を求めるは我が身に害を招きかねん。これより後、わしの命に背かないというなら、起請文を差し出せ。そうするのであれば越後にとどまることとする。」とおっしゃったので、

「もとより景虎様を主人と仰いでおります。主命に背くことなどありえません。」といったところ、「それならばよし」と越後に戻られ、三郎を隠居させたのち、越後の主として威をふるい、越中に攻め入って、父の忌い合戦を遂げたのであった。家臣の中で二心ある者は林泉寺にて切腹させ、国を治めることとなった。

 景虎は晩年、出家して謙信と称する。